開田村の昔話

『お清くずれとお清地蔵』

把の沢と西野の間、西野峠の南方に城山という山があります。
城山は、木曽家中興の祖 讃岐守又太郎家村が、暦応元年(1338年)に将軍足利尊氏から木曽を領地に賜ったとき、家村の臣 大矢右馬尉友重が砦を築いたところといわれ、又、さかのぼっては義仲が京都へ攻めのぼる時、陣をはったところともいわれ、あるときは、戦国武将のノロシ場でもあったと言われています。

この城山の西側は西北面にあたり急崚な斜面(ところどころ絶壁)になっております。
木曽義仲が京都に攻めのぼるとき、ここに陣をはって戦略を練っていた時、お清という女が献身的に義仲につくしてくれました。
ある時、義仲はひどく水を欲しがりましたが、城山には水が無いので、お清は、わざわざ西野川まで水を汲みに急斜面を降りようとして、運悪く足をすべらせて転落して死んでしまいました。
それからお清が くずれ落ちたというところを、 『お清くずれ』と呼ぶようになりました。
義仲は、自分の為に命をおとした お清の霊をなぐさめる為に、西野峠の城山への上り口にお地蔵さんをつくったと伝えられています。
伝えられているお清地蔵は西野峠から把の沢の方へ向かって約100mも降りたところ城山入り口の道上にあります。
台座正面には為父母之霊。寛保2年と刻まれていました。
寛保2年は1742年に当たります。
【これは、義仲がたてたものでないとおもわれ、後世の人がお清の供養の為にたてたものか、又誰かが先祖の供養にたてたものを、お清地蔵と呼んだのかは、不明です。】

*この内容は開田村役場の了承のもと、"開田村誌・開田村の石造文化財”より引用掲載しています。転写はご遠慮ください。
 
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