開田村の昔話

『平次郎地蔵』

開田村西野 。下の原からマイアスキー場への自然林の道・・
以前は御嶽登山、開田登山道の入り口にあたるところ……
覚明さまの森に、平次郎地蔵と呼ぶ、さいづち頭の地蔵さまがあります。

・・・・・『江戸時代享保三年(1718年)4月 西野村の平次郎と云う者、火を失して黒沢村の倉本 巣山を焼く、吏員出張調査し平次郎を福島の獄に投ず』・・ と西筑摩郡誌に記述されています。

、西野に平次郎という男がいました。
さいずち頭で、背が低く、無口の平次郎は、村の衆からとかくうすのろ扱いにされていました。
けれど平次郎は働きもので、田畑のしごとや山仕事に毎日精を出していました。
西野村は末川村と共に、昔から木曽馬の主産地で、どんな農家でも、馬を少なくても三頭、多いところでは、五、六頭も飼っていました。

この馬の主な飼料(かいば)は広い草山の若い緑の野草でした。
百姓達は馬に新鮮なやわらかい野草を食べさせるため、春四月末頃から五月はじめにかけて、山焼き(火入れ)といって、草山に火を放ち、古い枯草を焼き払いました。古い枯草の焼けたあとからは、緑もあざやかな若草が育つのでした。

ある年の山焼の時、草山の火が尾張藩の留山という入山さえ許されぬ禁伐林へ延焼し大騒ぎとなりました。
留山は尾張、徳川様の大事な禁伐林で百姓は一歩たりとも入山することをゆるされない山で、その上、ヒノキ・サワラ・ネズコ・アスナロ・コウヤマキの五木は民有地にあっても伐採が禁止されていた時代のことです。

かつて、 江戸時代 「木一本首一つ」といわれた時代。
お留山を焼いたとなると、大変な
大事件で、福島の代官所や上松の材木役所からの取り調べの役人も、真っ青な顔をして駆けつけ、現場を調べると、真あたらしい 桧の切株なども見つかり、 これは村中で盗伐をした上で、しめしあわせて切株をかくすために火をつけたに相違ない、「犯人を一人残らず出してよこせ」と庄屋や組頭に迫り、西野村庄屋、青木太左衛門をはじめ、副庄屋、組頭は打ち首にする、とえらいけんまくでした。

村の中は、ひっくりかえるような大さわぎです。
村中の者が集って、ひたいをよせて相談しましたが、どうにもなりません。
その時日頃は無口な平次郎 が進みでて、「わしが申し開きをしてやりましょう」というのです。
村の衆は不安に思いながらも、仕方なく平次郎のいう事に従いました。

翌日平次郎は役人の前に出て「あの火事は桧の枝が繁りすぎ、風に吹かれて、枝と枝がこすりあって自然発火したものだ・・」と申し開きをした上で、手にもった桧の枝とヒモミ(桧の皮を剥いで乾燥させて揉んでもの)を使って火を出して見せました。


役人は大いに怒りバテレンの奇術を使うものとして、平次郎を木曽福島へ連行し、牢屋へ入れて数日後打ち首にしてしまいました。
犠牲は平次郎一人で、庄屋をはじめ村人は責めをまぬがれました。

その後、失火の責任を一人で背負って断罪された平次郎の供養の為庄屋が発起して、村中でたてたのが、この平次郎地蔵だそうです。

平次郎によく似たさいづち頭のこのお地蔵さまは、寛保三年(1743年)に建立されています。
寛保三年は江戸時代、享保検地後、最低の年貢を納めた年であり、大凶の年。
そんな凶年に敢えてこの碑を建立した事は、村人の平次郎にたいする敬慕の強さを示すものと思われます。
台座には【右山道左黒沢道寛保三年】と道中安全の道しるべをよそおい、常に花や線香の絶える事がありません。

平次郎地蔵
*この内容は開田村役場の了承のもと、"開田村誌”より引用掲載しています。転写はご遠慮ください。

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