開田村の石仏他
開田村の古民家 の間取り図


馬屋










中マセ
ダイドコ
水桶


 流し 

排水桶
 
カマド 
 
味噌
漬物
置き場
下のウス
ヒヤ物置
に使う

 (三間)     ダイドコ
  タナモト


イロリ

上の
イロリ
 障
 子
   
 板
 戸
 四
 本
  マタザ

 板張り

中の入り口

  障子三本  帯戸四本       
       小便所
マセ
板張り
(イェンノ)
上のウスネ
デー
・・・・・・入り口・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
大便所
(別棟)




馬屋と木曽馬
馬屋


板に石置き屋根の家
開田村の家
   











【開田村の古民家と囲炉裏】


  
開田の古い民家の原型 左図のようになっています。

入り口正面は東、又は南面が多く、道路が西側や北側にある場合は、わざわざ廻り道をつくって、道路に背を向けて建っている家もあります。 又日中は野良で働き仕事が終わって暗くなってから、食事をしたり、休んだり(寝る)するだけに使ったので、家の中を特に明るくする必要がなかった為です。
入り口には幅一尺以上、厚さ五寸、長さ五尺内外の大きな角材を積んで、それを踏台として、板張りの上に上がるように、床下を高くつくってありました。水は自然水で、食品添加物など使っていない時代ですので、流しの排水は全て桶にとって、馬の飼料に使いました。
入り口を上がった板張りのところを「イェンノ」と称しました。家の入り口が土間ではなく、板張りであったのは、入り口に小便所があり、その溜坪があるため、板張りにしておおったものです。
馬屋は入り口に向かって南側又は東側で、日当たりのいい場所にあり、主屋と同じ屋根の下ですが、柱は二本あり、別建てになっています。これは、馬屋は腐朽が早いため、立て替えるのに都合がよいからです。
馬屋は二メートル以上も深く土を掘り、「しば」などを刈り入れるに都合良く作られ、春から秋に刈り入れた生草・生芝・枯草などが冬期間に馬の糞尿と共に踏みつけられ、翌年の春には上等の「きゅう肥」ができるように作られていました。
小便所は(イェンノ)の馬屋に面して、(周りに囲い等なく)受け板を作っただけ、小便はその下の溜つぼに流れ込むようになっています。
イェンノより一枚障子を開けて中に入ると一段高く板が張ってあり、囲炉裏と馬屋の中間に石で作ったカマドがあります。
馬屋との境に板戸があり、開けると馬のカイバ(飼料を入れる木製の長さ五尺くらい舟型をした飼料船)が置いてあり、餌を食べる馬の顔がイロリの方からみえるようにできています。
その横に流しがあり、流しから流される洗い水は桶で受け止め、一杯になるとカマドの釜に入れるか又は馬のカイバにいれます。これは流しの洗水の中に含まれている塩分や栄養分を無駄にせず、 の飼料として生かそうとしたものです。
イロリの周りからカサカタ又はウライェンノ迄続く所をダイドコと呼び、結婚式や葬式など大勢の人が集まる時に使用しました。ダイドコの幅は特別な例外を除き三間です。
囲炉裏のある部分を囲んでまわりに寝室や物置部屋がつくられ、同じ軒下に馬小屋もある形式は「居の間型」と呼ばれ、日本の古代住居建築の原型といわれています。又囲炉裏の周りに部屋があるという生活様式は縄文時代の竪穴住居遺跡にも見られます。
「うすね(ウスナ)」、「でえ(デー)」、「いや(ヒヤ)」は床板にワラを敷き布団もワラを入れて作ったものでした。布団の中にいれるワラはワラの外皮の柔らかい部分(ワラの軸ではなくて、外皮の部分だけ)を使いました。 そして一般的に万年床が多かったと思われます。

部屋の使用の仕方は
ウスネは若夫婦の寝室で、又お産をするときやお産の前後一ヶ月間位は、嫁はおもに上のウスネを使いました。「デー」は老夫婦が使うのが一般的で、若い一人者の家人は娘でも「イロリ」の周囲に寝るのが普通でした。客人が泊まるような時は上の「イロリ」のまわりに布団をしいて寝所としました。

囲 炉 裏 その周りに坐る場所は指定席のようなもので、坐る人が特定されていました。家の主人は ヨコ座、主婦はタナモト、その他の家人はシモ座、来客はマタ座ときまっており、マタ座があいている場合はシモ座に坐る家人が利用することもありましたが、タナモトは主婦だけが使うところ、ヨコ座は家の主人以外には絶対座ってはならないとの事。  がネコだけは別格。
ヨコ座に坐る人は、その家を背負って立つ責任があるとされ、このような風習は、最近迄つづいておりました。
建家は平屋建てで入り口の板張りのところからハシゴをかけて、天井裏を物置にし、使いワラ(ワラジ・ムシロ・などを作る時に使用する上等のワラ)やザルや蓑(みの)といった土の付かない農具などを置いていました。
建て方は土台を使わず根石の上に直接柱をたて、柱や板戸などはカンナを使わず、いわゆるチョ ウナケズリという「ちょうな」だけで表面を平らにけずってありました。クギなども木クギを使用し、ダイドコの上は、途中を柱でささえられないハリが何本か並んでかけ渡され、梁の上は(つか)が立てられ貫(ぬき)が1本通されているだけの家もあり、小屋組みは簡単なものでした。
長さ三間にも亘って1本の柱もない梁(はり)かけは奈良や京都の古いお寺によく見られるもので 代日本の木造建築の手法の一つといわれています。
屋根の勾配は極めてゆるやかで、上には長さ約1m厚さ約1cm幅15cm前後のカラマツ又はさわらのへギ割板で葺きで、上に細長い木を横に置き、その上に石を置いて、屋根板が風で吹き飛ばされないようにしてありました。
 このような家の建て方、使い方が何百年来大きな変化の無いまま昭和の始めまで
残り伝えられています。

  これとは別に庄屋・馬主などの家は他の旧家におとらない程立派なものもあります。末川村庄屋中村本家(現在は昔の五分の二程の大きさになっています)や西野村庄屋青木家(現在はありません)などは、間口十一間余り、奥行き十二間もあり、間数が十八もある豪壮な家でした。
この内容は開田村役場の了承のもと、"開田村誌”より引用掲載しています。 転写はご遠慮ください。
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