| 信州は日本の屋根といわれています。 かつてはその信州のチベットといわれていた開田村。 開田村は幾つもの峠に囲まれた標高1100〜1400mの高原の村、冬の寒さは厳しくマイナス 20度になるのも何回かあり、霜の降らないのは、7・8月だけだともいわれています。 それだけに 春・夏・秋の自然のすばらしさは又格別で、長い冬ごもりの後だけに村人の生活にも活気があ ふれています。柳又・小馬瀬・西又には、縄文草創期1万年から3万年前の遺跡もあり、古 い文化の残る村でもあります。 しかし昔は交通不便で他の地域との交流は少なく、天然痘が流行っても峠を越えてここまで侵 入できなかった、と言われるほどです。その当時どこでも行われていた、娘が嫁に行けば『お歯黒』 に染める事や『眉をそった風習』などもこの村へは伝わりませんでした。 峠を越えて入ってこない文化もあれば、一度入ったら峠を越えて、流出せずに残っていることも 事実で、小正月に行われる『厄落しの行事』も昔のまま、又現在も村人同志の会話には一切 敬語が使われません。 |
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『末川の水無し八丁』 末川の小野原という集落の奥に『水無し八丁』 と呼ばれている場所があります。 ここは、昔、末川の流れを中にして、両側に木曽馬の放牧場がありました。 当時は、どこの家にも、家族同様に飼われている木曽馬が三・四頭はいましたから、小野原や 近くの部落の馬だけでも、百頭はらくに越していました。 山の中まで広く馬柵を作って、春から秋にかけて部落の家々では、馬を放牧していました。 ある日のことです。小野原部落の少年は、家人にいわれて、背中に赤ん坊を背負い、放牧場 へ、馬を迎えにいきました。 木曽馬は大変人なつっこくて、迎えの人が行って「ホーイ」「ホーイ」と呼ばると、直ぐに走ってく るのですが、その日はどうしたことか、いくら呼ばってもそばへやって来ないのです。そればかりか、 そろって末川の流れを渡って、向こう岸へ行き草を食べ始めました。 それでも少年は「ホーイ」 「ホーイ」と呼ばるのですが、川の瀬音にかきけされ声も届きません。向こう岸へ行きたくとも、橋 は無く、川の流れは急で、しかも深く渡る事も出来ません。 秋の日はつるべ落しに暮れて薄暗くなるし、赤ん坊はむずがって泣き出すし、少年は途方にくれ て、泣き出してしまいました。 そこへ一人の旅のお坊さんが通りかかりました。 『なぜ泣いているのか』と親切にききました。少年は泣きながら馬の群れを指さして、お坊さんに訳 を話しました。 『それは気の毒な』『それでは私が、この川の水を無くしてあげよう』といわれました。お坊さんは 川に向かってお経を唱えながら、持っていた杖で、川原の地面をトンと突きました。 すると不思議、今 まで満々と流れていた川の水が、次第に川底へしみ込んでいくではありませんか。そしてあたりは水 の無い川原になってしまいました。 少年は大喜びで旅のお坊さんにお礼を言うと、その川原を渡って向こう岸に行き、沢山の馬を無事 連れ戻すことができました。 しばらくの間、馬を追う少年の姿を見守っていたお坊さんは、やがて夕闇の道を月夜沢峠へ向けて 歩いて行かれました。このことがあってから、この末川の川原八丁(約900m)を水が無くなったので、 この場所を『水無し八丁』と呼ぶようになりました。 この時の旅のお坊さんは、当時日本各地を歩いて百姓たちを救っていた、弘法大師だったというこ とです。 「水無し八丁」の河原に弁財天の岩といわれる大岩があって、その岩の上に弁財天の祠 があり ます。 その下の山手に寄ったところに大砂利の大岩があります。村の人はこれを『去る石』といい ます。不思議なことに、この「大岩」は、一年間に米一粒の距離だけづつ、弁財天の「川の岩」に近づ いて行くと言われています。 『「山の大岩」がこれから何万年もの先に、川上の弁財天の大岩に接触した時は、転変地変が 起こ るとともに、この世が終わりになる。』と言い伝えられています。 「去る石」という呼び名は去るとは・・【移動する】・・という意味のようです。 今でも4月10日には、小野原の村の代表が弁財天の祠に御新酒を進ぜて、お参りしているそうです。 昔は、この弁財天は熊野権現の奥の院といわれていました。 真言宗の檀家で構成される集落では、 菩提寺の住職と一体となって弁財天を勧請しています。真言宗の宗祖弘法大師の恩に報いる意味 で弁財天を祭ったものと解されます。 |
| この内容は開田村役場の了承のもと、開田村誌、他より引用掲載しています。転写はご遠慮ください。 |
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